【経営サポート】

【新春スペシャル】キルケゴール哲学と経営(前編)

2010/01/01

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も本ブログに変わらぬご愛顧を賜れれば幸いでございます。
 今日は新春スペシャル(?)として、「情報」とは違うエッセイ(随筆)を書かせていただきます。
 元旦の特別枠ということでご理解をいただければありがたく存じます。

 さて、私は、デンマークの哲学者・キルケゴール(1813~1855)に、高校生のころ強く魅かれました。
 彼はこういう意味のことを言っています。

 たとえ客観的な真理を見出したところでそれが一体何になろう。私はその中に生きていないではないか。
 存在するとは何か?自分の人生全体を使って、自分の答え、主体的な真理を見つけなければならない。

 キルケゴールが、人生の不安と絶望を徹底的に見据えようとし、またそれを乗り越えようともがいている姿勢を、20年前の私は、(彼の深さにはまったく及ばないにせよ)人生にそれなりの不安を抱えていた自分と重ね合わせて憧れていたのかもしれません。
 学問としてではなく、自分が抱えているのと同じような問題に対して必死にあがいた先人の記録・・・そのように哲学を捉えなおすと、まったく違う見え方が開けるように思います。
 
 大人が哲学に向き合うのは非常に意義がある!というのが私の持論です。
 それは、若い学生が『「哲学」学』という学問として哲学を捉えるのとは違い、大人が哲学に取り組むときというのは、ある問題に直面し、必要なものとして哲学( = 答えを導き出すための手法)を必死で求めている状態であると考えるからです。(単なる教養として哲学を勉強できる社会人は、暇・・・いえ、非常に時間に恵まれた方といえます。)

 ここでの「ある問題」というのは、「借金の支払い」や「今月の売上ノルマ達成」という性質のものとは違い、「何のために働くのか」「自分が本当にやりたい仕事は何か」「なぜ経営者(あるいは勤め人)の道を歩むのか」「なぜ結婚するのか(独身でいるのか)」といった抽象的な問いです。

 何だ、それこそ暇な人間のものではないか。普通は、自分が生きるため、家族を養うために必死で、そのようなことを考える時間などあるものか。

 そうです。「普通は考えない」・・・それなのに、そのような問いにつかまるということは、その人の人生にとって重大な局面にぶち当たっているという言い方もできます。
 ふっと思うことはあっても、普通は日々の仕事に忙殺されて一瞬で打ち消されてしまうような問い ― その問いを問いのまま残すのはエネルギーがいることです。

 こういった問いにつかまったことがない人は「幸せ」かもしれませんが、魅力のある人物とは、私は感じません。
 "幸せな人生"を送る人は多いと思いますが、"善い人生"を歩む人は少ないと言えます。
 「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(ジョン=スチュアート=ミル)という言葉もあります。 
 自分を成功者として、「俺を見習え」と言わんばかりに若い頃の自慢話や武勇伝を語る人がいます。しかし、「幸せになりたい」という人と、「善く生きたい」という人では考え方の軸が違います。どうせ自慢話をするならば、それを聞かせる人の人生観を見極めてから、本当の自慢になるようにしたいものです。

(後編に続きます。)

経営サポートグループ 荒木貴光


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